2007/10/7  春富士遭難〜秋の宝永山

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新田次郎の小説が好きで、学生時代から飽きずによく読んだ。
夢中になって短編小説から長編小説まで読んだ。
何年ぶりかで読み返した短編集の中に、
「春富士遭難」という、富士山の宝永山が舞台の短編小説があった。

小説は主人公の磯川たちが所属する山岳会が、3月、雪中訓練のため
宝永山の肩に向かうところから始まる。
そこで、リーダーの磯川が空を見上げ、その「濃青色ではなく緑色かかった」色を見て、
「三月の空としては、ちと変わっているな、そう思わないか」とサブリーダーの関屋に問う。
彼の小説では、職業柄か空の色や風の動きに未来の出来事を暗示させている。
この小説でも、磯川の言葉に彼らの近い未来の不安を読者に予感させていた。

10月の3連休、どこに行くと言う当てもなく1日目が過ぎ少し焦っていた。
せっかくの3連休。高い山でなくてもよいから、どこかを歩きたかった。
そんなときに思い出したのが、宝永山。
久しぶりに読み返した小説の舞台を歩いてみたいと思った。

連休二日目の富士山富士宮登山口の五合目駐車場は、朝の9時30分現在、
すでに多くの観光客が来ていて、なかなか駐車スペースが見当たらなかった。
しばらく駐車場を見回した後、たまたま開いていたスペースに車を入れて、
五合目から歩き始めた。
宝永山まではゆっくり歩いて1時間30分ほど。
のんびり歩いてもおつりが来るほどのお気楽ハイキングだ。
15分ほどで山小屋が二軒並ぶ六合目に着いた。
ここは、天と地の境。そして、富士山頂と宝永山への分岐点だ。

もはや森林限界を超えた水平の道を東に進んだ。
老若男女、日本人に外国人まで宝永火口を目指して歩いていた。
宝永火口は1707年、江戸時代の宝永年間に噴火した火口。
この噴火により、すぐ下の須走や御殿場は大きな被害を受け、
火山灰は遠く江戸まで届いたという。

しばらく平坦な道を歩くと、前方にカメラを持った人だかりが見えた。
期待しながら火口の縁を回り込むと、そこに宝永火口が大きな口を開けていた。
傾斜のきつい富士山腹に開けられた大きな火口。
ちょっと他では見られない不思議な光景だった。
そして、宝永山はその火口の東側の縁から伸びた尾根の先に茶色く変色した頂を見せていた。

磯川と関屋は、高い空に何か異変が起こっていることを感じ、
七合目付近、宝永火口北側上部にあったアタックキャンプを撤収させ、
宝永山の肩にベースキャンプを張った。
ただ、そこは吹きさらしの尾根。
三月と言えどもまだまだ冬の装いの富士である。
もう少し風が来ないところにテント張ったらと思うが、
森林限界を超えた富士山腹にそんなところはなかった。

宝永山へは一度、火口の底へ降り、
再び宝永山の肩から伸びた傾斜の急なジグザグにざれた道を登った。
ザクザクにざれた道は、一歩進むとずるりと滑って歩きにくかった。
人が歩いた跡を選んで登ったが、やはりずるりと滑ってしまう。
おわんですくったような形の火口内はあまり風もなく、
10月の2,400mと言うのに玉の汗が出るほどだった。
また、目印となる人工物も草木もない登山道は、
すぐに登り着けるようにみえても一向に宝永山の肩にたどり着かない。
いい加減イライラしつくした時、傾斜が緩やかになって肩に出た。

尾根に出ると反対側の御殿場登山口方面を見下ろすことができた。
そこにはため息が出るほどに広い砂礫の裾野が広がっていた。
御殿場登山口は今でこそ新五合目と言っているが、
実際は二合目であり、富士宮登山口とは標高で1000mほど違う。
ガスにかすむ御殿場登山口の新五合目から続く道が、
途中二手に分かれて一方はこちらに、一方はそのまま富士山頂へと続いていた。
磯川と関屋は雪のついたこの広大な斜面を形にならない不安を抱きながら登ってきたのだ。

磯川たちがテントを張ったその晩、
東シナ海にあった弱い低気圧が急速に勢力を増し山は大荒れになった。
激しい横なぐりの雪はみぞれになり、そして雨に変わっていった。
彼らは、この尾根で風速三十メートルの風と雨に吹かれて体力を消耗していく。
もう、当初の目的だった「宝永山の火口壁を攀じ登る」なんて「風流な」ことは
彼らの頭の中には微塵もなかったことだろう。

風を遮るものもないその尾根は砂礫の平坦地で、
その端にある宝永山の山頂はどこが一番高いのかよく分からない。
とりあえず、肩から尾根の端にある山頂らしき場所に向かった。
そこにはいくつかに割れた石の方向指示板と倒れた柵があった。
広い尾根からは前方及び左右に景色が広がっていた。
ただ、午後には崩れると言う天気予報が当たっているのか、
下界は遠くまで続く雲海の中だった。
一方、雲海の上は、見晴らしがきいた。
西方には遠く南アルプスの南端辺りが見えているのだろうか、
雲か雪か分からないが遠い稜線には白いものが見えた。

夜が明けても暴風雨は収まらず、
磯川たちは車を置いた御殿場登山口の二合目へと下山を決意する。
ただ、昨夜の暴風雨でパーティー9人全員すでにびしょ濡れになり、
体力を消耗しつくしていた。
そして、次々と仲間が倒れ、残った磯川と奈原も
「雪汁」と化したなだれに巻き込まれていく・・・。

さて、大分寒くなってきた。
登っている間はそれほどでもないが、じっとしているとやはり寒い。
そろそろ下るとしよう。

登りで苦労したザクザクの道も下りはそれがクッションになって
楽に降りて行くことができた。
宝永山の肩から火口の底へもあっという間だ。
底から見上げる宝永火口は、恐ろしいほどに大きかった。
火口壁上部に見える岩脈は「十二薬師」と言われているが、
その荒々しさは薬師如来と言うよりも憤怒の表情をした不動明王だろう。

五合目の駐車場へはもと来た道を引き返してもよいが、
御殿庭に向かうざれた道を下り、
森林限界下のまだ色づいていないカラマツの遊歩道を駐車場へと向かった。
この傾斜のない水平の道は、木の香をかぎながらの
気持ちのよい「散歩」だった。
宝永山の肩から遊歩道入口までは30分ほど。
そして、そこから五合目の駐車場までも30分はかからなかった。

磯川たちはどうして富士宮登山口の五合目に逃げなかったのかと疑問に思うが、
小説の中では触れられていない。
ちなみに、富士山スカイラインの開通は昭和45年。
この小説は昭和47年の遭難事件にヒントを得たと作者の註があった。

帰り道、磯川たちが車を置いた御殿場登山口新五合目(小説では二合目)に廻ってみた。
きのこ狩りの車だろうか、第一駐車場は6分程埋まっていた。
そこから見上げた富士山は双子山まではよく見えたが、
それより上はガスがかかって何も見えなかった。

* 「雪のチングルマ」 新田次郎 文春文庫に収録